依存と甘えと代償と。

Side Effects from Eleonora Stella Hariyono Oei on Vimeo.

とても感動して忘れられなくなってしまったのが、この動画。

観る人によって、様々な感じ方があると思うんですけれど、
私にはこの白い人がとても幸せに見えるんです。

外に出て、スポンジのように様々なストレスを吸収して。
家に帰りつく頃にはすっかり真っ黒になってしまってしまうんですけれど、
一人でお留守番をしているワンちゃんも寂しさで真っ黒。

お互いが抱えた大きなストレスを愛するもの同士で消せてしまうんですものね。
なんて幸せなこと!
 

さて。
ストレスと表現しましたけれど、
玄関のドアを開ければ、そこには様々なことが待ち構えていて、
嬉しいこと、楽しいこともあるでしょうし、
その反対の辛くて苦しいことだってあるはず。

自分自身が原因のこともあれば、
そうでないこともあったりして、、、

動画は後者。
スポンジのようにどんどん相手の辛さを吸収できるのは、
水を含んでいないスポンジだからできること。

吸収しきれないほど。
ですので、その人に余裕がなければ、そんなことはできない訳ですけれど、
水がポタポタと滴り落ちたとしても。

すべてを吸収できるか否かは関係なく、
吸収しようと思えるのか、思えないのか。ということは大切なことで、
もちろん、水を吸いきれなければ問題解決にもならないでしょうし、
それは自己満足ということなのかも知れませんけれど。

自己満足だったとしても。
吸収してもらうよりは吸収する方が良いと。
そんなことを思います。

ですので、損得。という考えをすれば、
損ということになるんでしょうけれど。

それでも良いと思えるのは、両親の影響が強かったということもあるんでしょうけれど、
ポタポタと水が滴り落ちていても、それを吸収してくれるスポンジの存在があることによるもの。

それがなければ、
こんなぼんやりした感覚ではないと思うんですけれど、
水を吸収して、重くなることはとても辛いというのか、
心が暗くというのか、重くというのか、、、、

決して楽しいことではないのは言うまでもないことですけれど、
私にとっては嬉しい?こと。

 
さて。
スポンジが重くなることは厭いませんが、
同じ水なら吸いたくないもので、
吸いきれないほど、どんどん溢れてくるのは、
依存心と甘えによるもので、問題解決なんて真剣に考えていないことによるもの、、、

溢れ出てくる水を止めることは、本当はとても簡単なことなのに、
いつまでも溢れ出るのは寂しさがさせていることがほとんど。

寄り添える相手が見つかったんですものね。
止めてしまえば、孤独に逆戻りしてしまいますもの、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

ということで、止めない方が都合が良いのでしょう。

孤独の底に落ちないようにするために水を止めない。という気持ちは分からない訳ではありませんけれど、
そんなことを続けていれば、寄り添ってくれる人も少しずつ少なくなってしまって、
孤独の底に落ちて行くばかりなのにと思うんですね。

  

祖母の癖はもう危ない。と姉弟にそれとなく伝えること。

私が子供の頃でしたので、今思えば、おばあさんと言うには若かったと思うんですけれどね。
それでも、授業中、先生が慌ててやってきて『すぐ帰りなさい!』と言うほどで、
駆けつけてみると、姉弟に囲まれて嬉しそうな顔の祖母。
そう、仮病、、、

こんなことが何度も何度もあって、
オオカミ少年ではありませんけれど、
家族に囲まれて、何不自由ない暮らしをしていた祖母でしたけれど、
孤独の底にいたんでしょうね。

病院通いもそんなことだったのでしょう。
医師はやさしい言葉をかけてくれますものね。

病院の待合室がサロンのようになっていることが問題になっていたと思うんですけれど、
現役を終えて、何もすることのない退屈な毎日が続けば、そうなってしまうことも少しは頷けるんですけれどね。
オオカミ少年と言えば言いすぎですけれど、
溢れ出てきて止まらない。と言われて、それにお付き合いをしたところで、
本当は止めたくなんてないんですものね。

さて。
これから超高齢化社会となって行く訳で、
私もその中に入っていくということですけれど。
こんなことですから、スポンジはどれだけあっても足りなくて、、、

それに。
スポンジも自分自身のことで精一杯。という状況になりますしね。

孤独の底はますます深く、どんどん深くなるばかり。

そう思うと、
自助努力は早めにしておくことが良いと思うのです。
孤独の沼に一度落ちてしまえば、ここからはなかなかというのか、
ほとんど抜け出すことはできなさそうですものね。

周囲に人がいるのに孤独感を感じるなんて、
しかも、それが人生の終盤にやってくるようなことほど寂しいことはないと思うのです。

この自助努力って。
他人に依存しないことを言いますが、
依存ですから、何かに寄りかかっている。ということで、
スポンジの数が足りない理由はココ。

ですので、
寄りかかるのか、寄りかかってもらうのか。ということで考えれば、
まずは、寄りかかってもらうことだと、、、

結婚しているとか、いないとか。
お付き合いをしている人がいるとか、いないとか。
子供が関わってくれるとか、くれないとか。

孤独感って、そんなことでは決して埋められなくて、
与えることから始まることなのかな。って、
与えて、与えて。満たされるまで与えること。

祖母のようにどれだけ与えてもお腹が満たされない。
つまり、依存心に支配されてしまっているようでは、それは孤独の底。ということで、
悲しいことですけれどね。そうなるように生きてしまった。ということ、、、

 
金銭であるとか、物であるとか。
担保される何かがあることで釣り合うことも多い訳ですけれど、
それでも少しずつ、そんなことを感じ始めるもので、
人がいるのに孤独感に苛まれたりするのは、心が通わないから起きること。

もちろん、それがあることがいけないことではありませんけれど、
人間的魅力であるとか、強い信頼関係で結ばれているとか。
その方がより健全で楽しくて、嬉しくて。
良い循環ですから、お互いを思い遣ることは長く続いていきますものね。

三尺三寸箸のお話もそうですけれど、
自分ばかりがご馳走を食べて、相手のことに目も気も行かなければ、
知らない間に孤独感に襲われるようになってしまうもの。

癒されているようで癒していること。
愛しているようで愛されていること。

釣り合えば嬉しくて、
良い意味でのバランスが崩れていれば、
そのバランスはさらに高いものになることを思うと、
与えることから始めるべきで、自分のことばかりを聞いて欲しい。して欲しい。ではダメということ。

そういう人に振り回されて時間を無駄にするよりも、
残された時間はどんどん少なくなる訳ですから、たくさんカードを引くこと。
時間は無限ではありませんものね。

返報性の原理なんていうものがあるようですけれど、
してもらうばかり。という人は孤独感に向かっていることさえ分からないほどの空腹なのか、
利用する価値があるから。と思われているからなのかも、、、
価値を感じてもらえなくなれば、潮が引くように人が去っていく。

よくある話で、よく見てきたこと。
たくさん友達がいると思っても、時間が経てばそれぞれに状況が変わりますし、
状況が変われば考え方も変わってしまうもので、今がそのまま未来ということはありませんものね。

周囲に人がいるにも関わらず孤独感を感じるようなら、
与える価値がある人。そのカードを引くための努力が大切なことだと。
今日はつくづく感じたのでした。

価値ではいけませんね。
その甲斐のある人。ということ。

______________

長々と書かせていただきましたけれど、
人間は神さまではありませんものね。

してあげてばかりでは嫌になるものですけれど、
してもらうばかりでは申し訳ないと感じる人もいて。
感じても動けない人もいれば、全く感じない人もいて、、、、
もっともっと!という下品な人もいて。

相見互い身の本当の意味が分からない人は孤独の底に沈む人。
決してお友達、知人の数ではないということ。
量ではなくて、その質ということ。

これは私のひとりごとと、備忘録。

  

霧島市国分スナック バー ちづる

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