大坂冬の陣から400年「国家安康」「君臣豊楽」は 
家康の言いがかりではなかった説

 

家康は関ヶ原で勝利し将軍となってからも、あくまで徳川と豊臣の両家の平和共存を願っていたという。だが70代に入り、自分の死後を考えるようになると、秀頼を差し置いて、西国を中心に勢力を振るう豊臣系諸大名らが、実績のない徳川秀忠につくことは覚束ないと思い至る。そこで自ら敷いた徳川・豊臣の共存路線に対し、あえて軍事的清算をもってのぞまざるをえなくなったというのだ(前掲、『関ヶ原合戦と大坂の陣』)。

いづれにしても布石のひとつというように感じますが、こうしたことは今の世の中でもあったりしますものね。
 

それらしい主張をしているように見えてもそれはきっかけの一つに過ぎなくて、真の理由は別の所にあるとか。
 
ですが、家康ほどであれば堀は埋めてしまうでしょうが、間の抜けている相手がすることであれば、それはレベルの低い見え透いたものに過ぎないことが多いですものね。
 

関ケ原後の豊臣家は家康の相手ではなかったのでしょうね。

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