ふりかえって考えると、私にとってカウンターはまさにこうしたサードプレイスだったのです。若く、まだ肩に力が入っていた頃、大学のなかで群れることを嫌い、うまく友だちも作れず、しかしプライドだけは高かった、まぁ、要するにこじらせ系女子だった私が、そのしょうもないプライドを打ち砕かれ、色々と背負っていたもの(背負っているつもりのもの)をおろして、ただの小娘に戻れる場所。そして、だからこそ、私はそこで色々なことを学べたのだと今になって思います。関西の酒場ライターであるバッキー井上さんは次のようにカウンターの魅力を語っています。
「ひとりでいるのは気楽だけれど時にさみしい。でも街にはカウンターがあってくれるので、さみしくなったらそこへ随意に行くことができる。…そのうちにひとりの人生だけれどひとりではなくなるような気になってくる」(バッキー井上、p59)
文化学科へようこそ カウンターには何があるのか?(宮野真生子先生)
ちづるに何があるのか?
サードプレイスのひとつとしてのご利用をご案内をさせていただいている私たち。
頭では理解できていてもしっかりお伝えすることができなくてダラダラ記事を更新していましたが、お伝えしたかったことのほとんどが書かれているサイトがありましたのでご紹介をさせていただきました。
読み進めていくうち目が冴えてしまい朝を迎えてしまい頭は興奮と疲労でいっぱい!😅
そんな状態の更新ですのでいつも以上におかしな内容になってしまうと思いますが、ご覧いただけますと嬉しいです。
『人と人は一定の役割に基づく関係を結びます。それは安定した日常を送るために大切なことですが、上司と部下や、妻と夫といった役割は、時に人の行動を制約し、その役割を生きている「私」の姿を見えなくしてしまいます。サードプレイスのレベリングはこうした役割を外すことで「本人の個性や、他者と共にいることの固有の喜び」を発見させることができるというわけです。』
繁盛するというか、利益を出すことのできる店舗運営を目指すことだと思いますが、それはお客様の満足度を高めることができた後から本格的に着手すること。
不器用なことからそう考えていますが、こうした変化はコロナ騒動によるもの。
生業的な経営を続けていることは今でも変わりませんが、目標とするところという意味で考えてみると、それではモチベーションを保つことができなくて、『今日は最高に楽しかった!』と仰っていただける方のご利用が増えてきたことにより変化させていただけたこともコロナのおかげ。
会計としては苦しい店舗運営から抜け出せないままですが、「与うるは受くるより幸いなり」ということもあるのかも知れません。
さあ、人生、これからやで!日々 前向きな気持ちでスタートできるのは、4年近く何もすることのできなかったコロナ騒動を体験したことから、お越しいただけることの嬉しさ・ありがたみを強く感じることができようになったことと、廃業の選択をしたくない!という反発というか、必死な思いがそうさせてくれているのだとも思うんですね。
こうした街の状況から廃業に向けて一直線に進む毎日。
より多くの集客を考えるべきだとは思いますが、仮にそれが出来たとしてどうなるのか。ということを考えてみると、私たちの考える『居心地の良いお店づくり』を放棄することで手に入れることができるとは思いますが、サードプレイスを本当の意味で意味で考えた場合、地域性ということも大きいと思います。
今はそうした需要を感じることはありませんが、真のサードプレイスを完成させるために形を探りながらという作業が必要ですが、それはコロナ禍で生き残るため何度も繰り返してきたことで、今もその延長線上にいると思えば辛い作業ではありませんが、廃業に向かうスピードに負けてしまえば即ゲームオーバー。😱
そうならないよう『居心地の良いお店づくり』に向けて再構築させるようママと二人で頑張っています。
リンクでは『何もしていないにもかかわらず周囲のお客様から迷惑がられることもそうだったと思いますし、職場でも理解されないということが多かったようで』と書かせていただきましたが、実際は”大人によるいじめ”だったと私は感じていて、当時の千鶴にレベリングという考えが不足していたことからリンク記事でも触れられていますが、コロナ以前のちづるに強く存在していた『一定の役割に基づく関係』を取り除くことも客様の満足度に貢献すると思うと、より多くの集客を目指すよう舵を切ることに抵抗を感じていて、結果、廃業に向かいつつある訳ですが、『支え、支えられ』ということでは、単にお店をご利用いただくという意味ではなく、伴走させていただける嬉しさとでもいうのでしょうか。
ともに生き、生かされる。年齢問わず、共助にも繋がるものと私たちは考えていますが、これは信頼関係の成立とレベリングを外せることを基本として、それを必要とされる方へお届けをさせていただきたいんですね。
人と人は一定の役割に基づく関係を結びます。それは安定した日常を送るために大切なことですが、上司と部下や、妻と夫といった役割は、時に人の行動を制約し、その役割を生きている「私」の姿を見えなくしてしまいます。サードプレイスのレベリングはこうした役割を外すことで「本人の個性や、他者と共にいることの固有の喜び」を発見させることができるというわけです。
それ以外では以下記事に書かれている通り、『用途に応じて使い分ける先』のひとつとして”積極的傾聴(自己開示)”をお求めの方へちづるをお選びいただけるよう努めることだとも思うのです。
夜のお店にもいろんな種類があり、一括りにするのはナンセンスだということ。用途に応じて使い分けるべきなのだ。風俗店は営業形態やサービス内容の違いによって細分化されているが、僕は大きく2つに分けられると思う。「エロ目的」か「会話目的」か、である。
エロより会話、「一人カラオケ」より「他人とカラオケ」。30代こそ昭和なスナックを活用したい
結局今日もダラダラと伝わりづらいお話をさせていただくことになってしまいましたが、それぞれの人の立場を問うことがなかったにしても、ご利用の目的がそれぞれ異なるスナックの場合、サードプレイスとして成立しづらいと考えるのは、お店を続けてきた中で感じていることで、これは以前も書かせていただきました通り、ご利用目的の違いとあわせて、年齢・価値観が異なることからセカンドプレイスに近いことを思うと、サードプレイスとしての場所はごく限られた閉鎖的空間の方が効果があるのではと思うのでした。