自助・共助による『ちょいカラサロン』の運営。😊

誰からも好かれていた叔父。

いつもニコニコしていて穏やかな人。
誰にでも親切で思いやりのココロを感じる叔父は私の憧れでもありましたが、認知症であることを知らなかった私。

当時『ボケ』と呼ばれていましたが、日を増すごとに酷くなる叔父の様子を祖母に相談するしか出来なかったのでしょう。

叔父のボケに対する悩みは叔母への虐待。
つねったり、叩いたり。 暴言も酷かったようですが、温厚な叔父の姿からは全く想像が出来なくて、叔母の話を疑ってしまうほどでしたが、とても仲の良かった二人だっただけに子供ながらに老いることへの恐怖を感じたことは今でもハッキリ覚えていること。

私の周囲だけがそうだったのかも知れませんが、ボケを含めて障害があることを隠すというか、恥ずかしいというのでしょうか。

現在と違って、理解されないことによる偏見に対する恐怖のようなものもあったのかも知れません。

そうした問題をご近所の方やお友達から聞いたことはほとんどなかったこともそうですし、ボケという表現も良くなかったと思うと、理解が進んだことは良かったこと。😊

ちょいカラサロン。
認知症を発症された方への効果は分かりませんが、初期の段階でしたら進行を止めることができる可能性に期待できるのは前回の記事でお話をさせていただいた通り。

食事したことを忘れてしまったり、同じことを何度も聞くなどの症状が見られた方の認知機能が回復したことは個人差もあると思いますが、回復することはなくても遅らせることは可能性として十分あると思うんですね。

歌うこともそうですが、同世代の方との接触ということも良い刺激になると思いますし、老いを仕方のないことだと待つのではなく、現役感覚を持ち続けていただく。
必要な介助は受けても出来る努力は積極的に行うこと。

そうした意欲を取り戻していただいき、お過ごしいただくこともそうですが、現役世代である私たちが ”いつか行く道” と捉えて真剣に考えるというか、まずは動いてみることが大切だと思うのです。

なんて分かったようなことを書いている私ですが、若い頃はどこか他人事で興味のある人に任せておけば。という気持ちがあったのかも知れません。

この歳になるまで気付くことが出来なかったことを恥ずかしく感じていますが、共助ということは支える側にとっても生きる活力になると思うのです。

若い世代の方はそれを謳歌することだと個人的には考えていますが、私たちがそれを担うことで若い方にとって、より豊かな時間を過ごすことに繋がれば、それは自ずと彼らの余裕となって高齢者福祉に対する理解、意識が高まるはず!

高齢者ばかり優遇される!という不満は自助努力が見えないことによって起きるんですものね。
高齢者と呼ばれる私たちですが、現役でいられる間に精一杯努めていきたいと思うのでした。

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