自分を待っている生活がありますか。|人の記憶の中で、今日を生きる
長くお店を続けていると、たくさんのお客様と出会います。
長く通ってくださる方もいれば、
いつの間にか、お顔をみなくなる方もいらっしゃいます。
転勤されたのかもしれませんし、
別のお店へ行くようになったのかもしれません。
仕事や家庭の事情が変わった方もいれば、
身体を悪くされた方もいらっしゃるのかもしれません。
その後、その方がどんな生活をされているのか、私たちには分かりませんが、
ときどき人づてに聞こえてくるその後のお話は、明るいものではないことが多いように感じるんですね…
シニア期というのは、
そうやって少しずつ人との交わりが減っていくところから始まることもあるのかもしれません。
最初は「最近、見ないね」と話している
よく来られていたお客様が来なくなると、
みなさん、「最近、○○さん見ないね」という話になって、
「元気にしてるのかな」と言うようになります。
でも、
何か月、何年と時間が過ぎると、
その話をすることも少なくなっていきます。
そして、いつの間にか名前さえ会話に出なくなる…
毎日の生活は自分の周りにいる人たちとの間で進んでいくわけですから、
自然なことなのだと思いますが、周りの人の中では「あの頃、よく来ていた人」と、過去の人になってしまうんですよね。
亡くなってから忘れられるとは限らなくて、
生きていても、人との交わりが少なくなれば、少しずつ人の記憶の現在形から外れていってしまう…
記憶から外れていった方のことを、
たまたま見かけた人から後になって聞くことがあります。
そのお話も、あまり明るいものではないことが多くて、
人との交わりが少なくなるということは、こういうことなのかなと、
歳を重ねた今、強く思うのです。
定年すると、職場はもう自分を待っていない
前の記事で、これからのシニアについて書きましたが、
仕事をしている間はあまり意識していなくても、毎日行く場所がありますものね。
自分の机があって、今日やる仕事がありますし、
昨日の続きがあって、明日の予定もちゃんとある。
誰かから相談されることもあれば、
自分が誰かに話しかけることだって普通のことで、
会社へ行けば、
自分が昨日まで生きていた生活の続きがあることを思うと、
職場というのは、自分を待っている生活のひとつと言えるのかもしれないですね。
でも、
定年すれば、職場はもう自分を待っていないですものね…
何十年も通った会社でも、
自分がいなくなった翌日から、会社は普通に動いていくのは当然のことで、
仕事から解放されて、自由な時間が増えることを楽しみにされている方は多いと思いますが、
多くのお客様を見てきて思うことは、
職場が自分を待たなくなったあと、
自分を待っている生活のない方が多いということです…
「待っている人」ではなくていい
「自分を待っている人がいる」
と聞くと、家族や夫婦、恋人を思い浮かべると思います。
帰りを待ってくれる人がいることは幸せなことだとも思います。
ですが、誰にでもそんな人がいるわけではありませんものね。
一人で食事をすることが平気な人もいれば、
一人でドライブをしたり、旅行をしたりすることを楽しめる人もいます。
私のように、誰かと一緒でなければ何もできないわけではなくて、
一人の方が気楽だという人も多いと思います。
一人でいることが好きという方の場合、
無理に誰かと一緒にいる必要なんて全くないと思いますが、
一人でいることが好きということと、
「自分を待っている生活」があることは別のことで、
そこはかなり重要なことだと思うのです。
一人で暮らせることと、人生に続きがあること
これからの私たちは、一人で時間を過ごすことがますます上手になると思います。
インターネットはありますし、
YouTubeもあれば、ゲームもある。
買い物だって家から一歩も出なくてもできますし、
気の済むまでAIと話すことだってできる時代ですものね。
一人でも退屈せずに暮らせる時代になりましたし、
これからもっと便利になるのでしょう。
でも。
一人で時間を過ごせることと、
自分の人生に続きがあることは、少し違うように思うんですね。
見ていた動画の続きを見るということも一つの「続き」には違いありませんが、
「あの話、どうなった?」と誰かに聞かれる続きもあるでしょうし、
「今度、あそこへ行こう」という続きもある。
いつもの場所へ顔を出せば、「久しぶり」
と言われる続きもあって、何日か姿を見せなければ、
「最近、見ないね」と誰かの会話に自分が登場することもある。
そうした小さな続きがあることで、
昨日と今日と明日がつながっていくと私は思うんですよね。
自分の「今日」を知っている人がいる
友達が何人いるかということではないとも思うのです。
誰かと毎日会う必要もありませんし、
たくさんの人に自分のことを知ってもらう必要なんてないけれど、
「今日」の自分を知っている人が少しくらいいてくれると嬉しい。
先月会ったときに話したことを覚えていて、
「この前のお話、どうなった?」なんて聞いてくれて、
髪を切れば気づいてくれたり、
元気がなければ、「どうしたの」と心配してくれる。
久しぶりに顔を出せば、
「元気だった?」と嬉しそうにしてくれる人がいる…
それだけのことですが、
たったそれだけのことで、誰かの中でもつながっていて、
自分の人生が、誰かの記憶の中でも現在形になっていることって、
結構大切なことではないかと思うんですよね。
帰る家があることと、帰ってきたくなる生活があること
老後の準備というと、
まず住むところを考えると思います。
どこで老後を過ごすのかを考えることも大切なことですけれど、
「住む家を用意することと、そこで暮らす生活を用意することは違う。」
最近、そんなことをよく思います。
家なら、お金を出して直すことができますし、
家具や電化製品も買うことができます。
引っ越したその日から、
そこで食事をして眠ることもできる訳ですが、
自分を知っている人や行きつけの場所もそうだと思います。
くだらない話のできる相手や、
一緒に食事をする人、時間を共にする人。
そんな関係も、欲しいと思ったその日、その時に用意できなくて、
「また今度」と言える関係というものも、お金を出してその日に全部そろえることはできませんものね…
帰る家があることと、帰ってきたくなる生活があることは、
全く別のことで、全く別の価値ということなんですよね。
住む場所を用意することはできても、
生活そのものは時間をかけなければ作れないものだと思うのです。
少しくらい、甘えられてもいい
前の記事では、
自分でできることは、自分でする。と書きましたが、
それは大切なことだと思っています。
誰かが何かをしてくれることが当たり前になって、
「前はしてくれたのに」
が始まれば、関係は簡単に壊れてしまいます。
そう考えると、できるだけ自分の生活は自分ですることだと思うのですが、
自立することと、誰にも甘えないことは違うとも思うようになりました。
普段は一人で暮らせる人でも、ときどき誰かに相談する。
少し愚痴を言うことや、くだらない話をする。
普段とは違う顔を見せることだって必要だと思います。
何かあったとき、
「ちょっと聞いてよ」と言えるくらいの甘えでしたら、
あってもいいというか、あった方がいいのではないでしょうか。
ただ、一人の人に全部を預けてしまわないことなのだと思います。
一人では少し足りないところだけを、
いろいろな人や場所と少しずつ持ち寄る。
それくらいが、これからのシニアにはちょうどいいように思うのです。
忘れられないためではなくて
「忘れられないために人付き合いをした方がいい」という話に聞こえる方もいらっしゃるかもしれませんが、
そういうことを言いたいわけではないんですね。
誰だって、いつかは人の記憶から消えていきますし、
たくさん友達を作ればいいという話でもないですものね。
大勢の人に囲まれて暮らすことが幸せだとも思わないのですが、
生きている間くらいは、自分の中だけで人生を完結させなくてもいいんじゃない。って、
そんなことを思うのです。
今日見たものを誰かに話したり、
昨日あったことで笑ったりする。
次に会ったときに話したいことがある。
「またね」と言って別れるとか、
そんな小さなやり取りなんですけれど、
自分の今日が誰かの今日と少し重なっている。
それで十分なのかもしれません。
自分を待っている生活は、その日に用意できない
前の記事で、「人間関係は、必要になった日に用意できない」と書きましたが、
自分を待っている生活も同じだと思うんですよね。
定年した翌日から、
「さあ、今日から会社以外の人間関係を作ろう」
そんなことを思ってみたところで、簡単にできるはずもないですものね。
身体を悪くしてから、「誰かと話したい」と思ったところで、
その日に長い付き合いの人が現れるわけでもないですしね。
そう思うと、仕事があって元気でいられるうち。
一人で何でもできるうちに。
そうした状況の中で、
会社とは関係のない場所へ行ってみたり、
肩書を知らない人と話してみる。
行きつけの場所を一つ作っておいて、
ときどき誰かと食事を楽しむ。
誘われれば、出かけてみる、
というように何年か過ごしているうちに、
自分の昨日を知っている人ができて、自分の今日を知っている人ができるというものですものね。
そうした積み重ねが、自分を待っている生活になっていくのだと、
私は思うのです。
明日も、自分の人生が現在形であるために
待っている人がいることは心強いと思いますが、
いなくてもいいとも思うんですね。
一人で暮らして、一人で食事することだっていいと思いますし、
一人で出かけることが好きということでもいいと思うのですが、
明日になったら行こうと思える場所があって、
今度会ったら話そうと思っていることがある。
しばらく顔を見せなければ、「最近どうしてるかな」と誰かが思ってくれる。
もちろん、自分も「あの人、どうしてるかな」と思える人がいることが大切なことで、
そうした小さな関係がいくつかあることだとも思うのです。
暮らす家は一人。
でも、生きる世界は一人にしない。
前の記事で、こう書きましたが、
その続きを考えているうちに、もう一つ思うようになりました。
待っている人がいなくてもいい。
でも、自分を待っている生活は、あった方がいい。
昨日の自分を知っている人がいて、今日の自分を知る人がいる。
そして明日は、またその続きから始まる…
歳を重ねたとき、「あの頃は……」だけではなくて、
「今日はね……」と話せる暮らしがあること。
自分の人生が、まだ現在形であること。
そんな生活を、元気なうちから少しずつ作っておくことは、
私たち世代の老後の準備の一つなのではないかと思うのです。
この記事を書いたあと、偶然こんな動画を見つけました。
65歳で定年を迎えたあとの生活について、
さまざまな人の声が紹介されている動画です。
もちろん、
ここに出てくる話がすべての人に当てはまるわけではありませんし、
紹介されている「口コミ」の出典についても、私には分かりませんが、聞いていると、
仕事がなくなったことよりも、行く場所がなくなったことや、話す人がいなくなったこと、
自分の役割がなくなったように感じることについて話している方が多いことが印象に残りました。
この記事で書いた「自分を待っている生活」というものを、
もう一度考えるきっかけになる動画かもしれません。
出張や観光で霧島に来られた方で、
静かに過ごせる場所を探している方は、こちらもご覧ください。


