ちょいカラサロンにお越しくださる多くのお客様も言われますし、
シニアの方によく言われることは、
「行ける時に、行っておかないとね」
というものです…
私たちもそれだけ歳を重ねたということだと思うのですが、
それだけに最近、この言葉をよく考えることがあります。
足腰が弱くなるかもしれませんし、
病気をするかもしれないですしね。
車だって、いつまで運転できるかなんて分からなくて、
今のように、いつまでも行きたいところへ行けるとは限らないですものね…
今日できていることが、何年後にも同じようにできるなんて保証はありませんし、
だからといって、残された時間ばかりを数えながら生きていたら、
自分から先に老いてしまうような気がするのです。
あと何年あるのか、なんて数えるよりも、
新しい思い出をいくつ作れるのかを数えた方がいいよね。って、
そんなお話をママとしている中で、
またバカバカしいことを思いついた私たち…😅
今日はそんなお話をさせていただこうと思います。
「煩悩を消す旅。」
これから先の時間を使って、
108あると言われている煩悩を、一つずつ消していこうと考えています。
昔の思い出だけで生きたくない
これまでの人生を振り返ると、
仕事をしている時間がずいぶん長かったように思うんですね。
ママと二人で色々なことに挑戦をしてくる中で、
たくさんの人と出会うことができましたし、
ちづるもそうですが、ちょいカラサロン、昼スナックも始めることができて、
とても充実した時間を過ごすことができたと思っているのですが、
ちづるを始める前は、
旅行が好きで、色々な場所に行ったということもあると思います。
そうした記憶があったからこそ、
この11年という時間をちづるに使うことができたのかな、って思いますし、
その記憶がちづるを動かす原動力の一つになっていたとも思うのです。
でも、
これから歳を重ねていく中で、そんな昔の旅行ばかりを思い出しながら、
生きていくのは、ちょっぴり悲しい気がするのです…
「あのころはよかったね」だなんて、
うんと過去のことを懐かしむのではなく、
「この前、あそこへ行ったね」
「次はどこへ行こうか」
そんな会話をしながら、老いていきたいと思うと、
思い出を過去から取り出して生きるだけではなく、これからも思い出をつくる側でいたい。って、強く思うのです。
それが、この旅を始めようと思った一番の理由。
108の札所をつくる
四国八十八ヶ所のお遍路は、一つひとつ札所を巡っていくという形ですが、
私たちはお遍路をするわけではありませんし、宗教的な修行をするわけでもありません。
なんですけれど、
「一つずつ巡っていく」というお遍路の考え方を、少しだけ借りることにしました。
それは、88か所の札所を巡るのではなく、
煩悩の数といわれる108を基本の数字にして、
108の思い出をつくりながら、煩悩も払えるんじゃない?って、
そんなシャレのようなことを思いついたんですね。
なので、
いつもの日常から少し外へ出て、新しい記憶を一つつくったら、一つの札所。
こんなルールにしようと思っています。
日帰り温泉へ行ったら、一札所。
公園でバーベキューをしたら、一札所。
「大人の遠足」で誰かと一緒に出かける日があれば、
それも一札所としてカウントしようと思います。
遠くへ行ったから良いというわけでもなくて、
お金をたくさん使ったから、いい思い出になるわけでもありませんものね。
近所の公園でもいいと思うのです。
「今日は、いつもと少し違う一日だったね」
楽しく思えたら、それが私たちの一札所。
そんなふうに数えていくと、楽しそうじゃありませんか。
大きな旅は、十札所
ちづるも12年目に入りましたしね。
年に一度くらいは、何日かお店を休んで、
普段はなかなか行けないところへ行ってみようと考えています。
その旅は特別に、十札所。
ということにするのも面白いと思うのです。
四国八十八ヶ所には、
各札所のお砂を踏みながら巡拝する「お砂踏み」というものがありますが、
そこからちょっとだけ発想をいただくことにしました。
年に一度の大きな旅は、
十札所をまとめて巡ったことにしちゃおう。
かなり勝手な解釈の私たちの巡礼…😅
どこへ行くかよりも、誰と行くか
お遍路には「同行二人」という言葉があって、
一人で歩いていても弘法大師とともに巡っている、という意味の言葉なのだそうです。
私たちの旅は本当のお遍路ではありませんが、
二人で108の札所を巡るというところには、少し通じるものを感じるんですね。
ママが行くときには、私がいて、
私が行くときには、ママが傍にいてくれる。
こうした考え方は何度も書いていますが、
どこへ行くかよりも、誰と行くかにも、どこか通じるものを感じるのです。
遠くまで旅行しても、
近所の公園でお弁当を食べるだけだったとしても、
一緒に行った人との時間が残ることが、
私たちには何よりも大切なことなのです。
「咳をしても一人。」では、
ちょっぴり寂しすぎますものね…
108の札所は、観光地を集めた記録にしたいのではなく、
二人が一緒に年を取っていく記録。
そんなものになればいいと思っています。
現役の感覚のまま、年を取りたい
いつまでも若く見られたい、というわけではありませんし、
年なんて取りたくない、と抵抗するつもりもなくて、
普通に歳を重ねていければ、それでいいのですが、
現役の感覚のまま、年を取りたい。
ということだけは強く思うんですね。
来月は何をしよう。
次はどこへ行こう。って、
そんな「次」の楽しみがあるうちは、
自分から先に生活を小さくしなくてもいいというか、
しないほうが良いと思うのです。
そう思うと、
年を取る準備をするよりも、次の札所を探していたくて、
いつか本当に身体がついてこなくなったら、
「お互い年を取ったよね」って、
ママと笑うことができればいいと思うのです。
108まで行けなくてもいい
人生ですから、何が起こるか分かりません。
なので、108札所まで必ず行けるとは思っていません。
途中で病気をするかもしれませんし、
どちらかが遠くへ行けなくなるかもしれないですしね。
108札所にたどり着く前に、
この旅そのものが終わることだってあるかもしれませんが、
それでもいいと思っています。
ママのことですから、第50札所で終わったら、
「58ヶ所も残ってしまった」ではなく、
「50個、新しい思い出をつくったんだよ」
って振り返って、大笑いしてくれるはず。
大切なのは108という数字を達成することではなくて、
うんと昔の思い出を、
みんなで新しい思い出で少しずつ塗り替えていくような、
そんな楽しくて広大な作業のようなものだと思うのです。
行ける間は、行っていた。
そう思えることのほうが、
私たちには大切なことなんですね。
「あそこにも行きたかった」とか、「あれもやってみたかった」
そんなことを思いたくないんですね。
思い残してしまいそうということなら、
元気なうちに、一つずつ減らしてしまいたい…
108は、残り時間を数える数字ではなくて、
これからつくる思い出を数える数字にしてしまいたいのです。
108札所を巡り終えた日
それでも、
できることなら108まで行ってみたいとは思うんですね。
何年かかけて二人で巡って、
第108札所までたどり着けたとして、
私たちがどうなっているのかは分かりませんが、
「もう十分行ったね」って、
二人で笑うことができたなら、
煩悩、消滅。
それでいいと思うのです。
でも。
第108札所から帰ってきて、
「そういえば、まだあそこに行ってないね」なんて話をしていたとしたら…
まだ煩悩が残ってたね。
次はどこへ行ってみようか。

なんて、
そんな日を迎えることができたとしたら、
私たちらしい年の取り方ができたなと、
思い残すことのない生き方ができたかな。って、
振り返ることができるのかも…
第109札所を目指して頑張るぞ!
おしまい。
この旅を始めようと思った背景には、
「生きている時間と、自由に動ける時間は同じではない」
と考えるようになったこともあります。
そのことを書いたのが、こちらです。
出張や観光で霧島に来られた方で、
静かに過ごせる場所を探している方は、こちらもご覧ください。



