最期の晩餐の更新を楽しんだ1日。
健康寿命というのか、私はその人が持っている意欲だと思うのですが、
いつまでも意欲的でいたいと思っても、加齢とともに体が言うことを聞かなくなることで、
意欲が低下してしまうこともあるようですものね。
個人差もあるのでしょうけれど、
そうならないよう努めたとしても、私はどうも自信がなくて、
意欲的に過ごしていられる時間はそんなに残されていないのかも…
そんなことを思うのです。
まだまだ若いとは思うのですが、
同年齢の方のお話を伺っても、膝や腰の痛みであるとか、
入院や手術をされる方も増えていて、身近な問題として考える時期ということなのでしょう。
健康なんて、あって当たり前!
そんなことを思っていましたが、
当たり前と言えなくなってきた今、何から始めなくてはいけないんだろう…
日々の忙しさというのは言い訳で、
その辺りを真剣に捉えていなかったのだと思っていますが、
ある日突然、倒れておしまい…
ニュースなど見ていると、
同世代の有名人のそんなお話も聞こえてきますしね。
私にとって、何が大切なんだろう。
何を手放したくないんだろう。
やり残したと思えることも特にありませんし、
新たにチャレンジしてみたいこともないのですが、
ママと過ごす時間をもっと増やしておきたい。
何十年とママと過ごしてきた私には、
「咳をしても一人」という世界は寂しすぎて耐えられそうにないんですね。
今の生活スタイルというか、リズムや呼吸が当たり前になっていて、
お店の運営ということもありますが、彼女のいない日常がどうにも想像できないのです。
もちろん、ママ自身の意欲や健康のこともありますので、
あまり無理はして欲しくないんですけれどね。
美味しいものが食べたいとか、
どこかに旅行したいとか。
これまでは、
それを目的として出かけていたように思うのですが、
振り返って考えてみると、どこに旅行したのか、何を食べたのかなんて、
ぼんやり思い出せる程度のことなんですね。
それよりも、
どんな風に過ごして、
どんな話をしたのか。
そればかりが思い出に残っているんですね。
若い頃から「思い出は心の中にあればいい」と思っていましたので、形として残しているものはほとんどないのですが、
それでも、
ママとどんな話をしたのか、何を見たのか。
それだけはしっかり記憶に残っていて、
記憶だけが頼りなんですけれど、昔話をいつまでも続けられる幸せというのか、
共有できる相手がいることの安心感とでもいうのでしょうか。
上手に表現できないのでいけませんが、
私たちには、形に残るものはいらないというか、
話し始めれば、心の引き出しからすぐに持ってくることができる手軽さ?
これもちょっとニュアンスが違うんですけれどね。
心の中にあるだけで十分で、
写真を見なくても、昔の話が次々と出てくることの方が大切なんですね。
梅干しひとつで、ご飯を食べられるとでも言うのでしょうか。
それに近いのかも知れません…😅
今日、ピクニックを楽しんできましたが、
何が私の心に残っているかと言えば、大きな蜂が飛んできて、お弁当のおかずを食べていたとか、
車の中でずっとバカ話をしていたことなんですね。

もちろん、
桜島を眺めながら食べたお弁当のことも楽しかったわけですが、
どんな味だったのかなんて、もう忘れちゃっていますしね…
そう思うと、
美味しいものや絶景そのものを目的にする楽しみ方は、私もママもあまり合っていないのかも…
それよりも、バカ話をして笑ったこと、
仲良く1日を過ごすことができたこと。
それで十分、心がリセットされる。って、
ホント安上がりなんですけれどね。

私にとっての晩餐は、食べるものでもなければ、
非日常に身を置くことでもなくて、
とことん会話することと、時間をどれだけ共にできたかということなのだと。
改めて、そんなことを感じた1日。
私たちの考える最期の晩餐。
意欲が低下したとしても、
最期の晩餐だけは、積極的に更新していこうと思うのでした。
おっしまい。
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